« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月

2009年10月18日 (日)

キャンプのつくりかた

ある日のキャンプ改築風景。

Dscf0863_3

①こわす。再び使える木材、釘はとっておく
わたしはお掃除。

Dscf0866_2

②柱を建て、針金で固定する。屋根にビニールシートをはって雨よけに。
写真の奥、柵のあるところから向こうが政府機関である、農地改革省の敷地。
写真の左側は道路。

Dscf0869

③ほぼできあがり!机とイスでダイニング(?!)
板の仕切りの向こうが寝台で、みんなで雑魚寝する。壁は過去の運動で使った弾幕と、見えないけど、ココナツの葉を編んだものでスキマを埋める。



Dscf0862

④調理場。毎回火をおこし、米をたく。フライパンで野菜も料理するよ。
私もここで、ずいぶん腕をあげました(笑)
青いボトルは水、農地改革省の中からもらう。(シャワーもそこでさせてもらう。不思議な関係よね、、)
実はだれも素性をよく知らない、おじいちゃん。年金、をもらうために、若い頃働いていたマニラの会社の労働証明?をもらいにヴィサヤ地方から上京してきたらしい。でもうまくいかないらしく、私がいたころもかれこれ半年くらいいたなぁ。

若き日のブイブイ言わせてた(!?)ころの写真や、刺青(ひざに注目!)をよくみせてくれた。


Dscf0860_2

キャンプ改築を担うため、派遣されてきたイモック村ボーイズ。
よくがんばってくれました^^

| | コメント (0) | トラックバック (0)

キャンプ暮らし

案外、ふつうだった。

車の音は一晩中ひっきりなし。
「ガシャン」と追突事故が起こったかと驚くほどの音は、大型車やクレーン車がカーブで曲がるときに鳴る音らしい。

夜中、体がかゆくて目が覚める。
羽音とか気配はないのに。手足顔、布から出ている部分が、気がつくとやられている。

薄いベニア板の寝台は、やっぱり身体が痛くなる。ふとんの有難さが、すんごいわかった。でも一番きれいで、厚いダンボールでつくってもらった寝床だから。じゅうぶん。



今夜、はじめてキャンプで寝たのだ。
はじめて、マニラの外でねた。

・・・・

農地改革省前のキャンプは、各地農村からだいたい一週間、2,3人くらいが交代で、土地に関する法律延長請願運動の一環で、張り込み?生活をする人が集まる。


それにくわえ、イモックの友人たちが生活の糧を得るため、キャンプ前の路上で野菜を売る。
月曜日から金曜日まで、一週間のほぼ3分の2、子どもを村に留守番させて上京。

運動人たちも、野菜売りのイモック村民も、たまに遠くからやってきた誰かの友人も(宿泊代をうかせるため)
どこの人かよく分からない人も。
みんなが一緒に生活しているのが、キャンプ。

実はみんなキャンプで初対面、とかも普通にあるらしい・・・
が、ここがフィリピン人のいいところ。
面識あるなし関係なく、NGOに関係している、とかなにかあれば、誰とでもいっしょにやっていける。

そんなこんなで、朝おはようを出かけ前に言いに寄ったり、
ご飯をいっしょに食べたり、野菜売りを手伝ったり掃除をしたり。
一緒に時間をすごすようにしていたら。

いつの間にか、私もキャンプメンバー仲間入り。


「なんでここで寝ないの??」

と、しまいにゃ、だいすきなローラに聞かれる始末。笑



寝心地がいい訳ないこと知ってるし(キャンプメンバーも、一週間いれば体調崩す始末・・・)
普通にマニラの外で寝るなんてこわかったし。


でもここまできたら、一度はこのキャンプで寝てみなくては。
とはずっと思っていた。

日やキャンプメンバーをうかがって、ついに今夜決行。


みんな、眠りなれない私が少しでもよく眠れるよう。
一番いい場所をあてがってくれた。
板とダンボールだけだけど、こんなにやわらかいベッドを私は知らないと感じた。

いける!やったよ、わたし!!

やはりよく寝れないので、次の日は寮のベッドで眠りなおしたけどね。

・・・・

ずっとずっと、自分の生活が気に入らなかった。

私はマニラで、また前と変わらずの生活に戻ってしまう。

後ろめたい、と思った。
なんのために平気じゃないのに、平気なふりして、農村コミュニティに入り込んで、
関係築いて、仲間に入れてもらって。

どこぞの外国人としれない私にも、

「おすそわけしてくれた」

そんな、農村の人々に、こんな生活見せられない、申し訳ないと思った。
でも、マニラにちゃんと、自分だけの落ち着いた生活があるからこそ、

自分を限界まで試せる。一人でもやっていける。

これ、事実。

だからもう、線を引こうとするのはやめた。
どっちかに属するとか、自分を位置づけるとか。ではなく、

境界線をいったりきたり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

マニラ暮しの手帖

改めて、自分が「フィリピンで生活する」という意味を考えながら、
4月から出会った人・団体との関係をどう継続していくか、これからどう発展させていこうか。

揺れ悩み悶々と、考えた7月の1ヶ月でありました。

やってみた行動は、

・農村の話を、まずはマニラの子どもたちに話したい。 ⇒男の子センターを再び訪れる

・子どもと年配者と関わってきた。次は同世代! ⇒大学に進出してみる

いちばん模索したのが。

・自分の生活をどうしていくか。

週2日づつは男の子センター、大学サークル
1日は手紙を書いたり、ネットカフェで情報を得たりメールしたり。のんびり休息日。
そして、残りの曜日は農民団体のキャンプへ通ったというのが、7月のスケジュール。

プラス、今まで寮の家族と食事をともにしていたのをやめ、
自炊スタート。

日本での一人暮らし生活もそうだけど、
自分で自分がなにを「食べる」か決めることは楽じゃない。
でも、野菜や肉魚など、なまものを買って初めて生活が見えてくるんだ。
それは、ほしいものを買う、という買い物じゃない、毎日食べていくための買いものをするなかで気がつくことがあるから。
値段の上下とか、季節や気候。また、自分の住んでいる土地についてや他の人に比べた、自分の立ち位置というか。

マニラでは、夕方人々の帰る時間にあわせて、路上にマーケットができる。
果物に野菜、肉に魚。
おもしろいことに、生鮮食品以外にも雑貨(アクセサリーや衣類、めがねに携帯ケース?)などほんと、いろいろな露店が現れる。みんな、地べたにしいた、風呂敷の上に品物を並べた感じ。

これいくら?
どうやって料理するの?
半分だけ、ちょうだい。

買い物するうちに、覚えていくこんな会話。


うちの寮には冷蔵庫があるけど、ない家庭の方が多いことに、毎晩マーケットがでる理由が分かった。
ここでは量り売りが基本、暑い気候ではすぐ悪くなってしまう。その日に食べる料理用に、食べる量だけを皆買って帰るのだ。
もう一つ、理由がある。

普通に、買い置きしたパンとかお菓子をビニール袋にいれておいたら。
アリが!!!
キッチンや室内でさえも、あまった料理のお皿を出しておいたら、数時間後にはアリだらけ。
なんど、アリには泣かされたことか。

日本から送ってもらっただしの元とか、後輩にもらったフリーズドライの牛丼、大事に戸棚にいれておいたら・・・
ねずみに食われていた・・・

弱肉強食の世界。(ちょっとちがうが、食べ物を全力で守らねばならぬ世界。)

とっておいて、後で食べようなんて、甘い考えは通用しないのだ。

だから私も、卵一個とか、米1キロ、かって帰った。







そういう、生鮮食品や雑貨を売る商売をしている人や、
サリサリストアという、玄関先での生活用品店の人と接する機会が増えた。

最初は、人も多いしすこし怖い気もしたけれど。
こっちがふつう、なんだよな。

でもスーパーやドラックストアもだいすき。
シャンプーや洗濯洗剤、トイレットペーパー、虫除けクリームを買っていた。

たまにご飯を食べていく、いつもトライシクルドライバーさんだらけのカンティーンこと食堂や、顔見知りのパン屋さんもできた。


・・・

普通、寮では自炊は認められないらしい。
幸い許してくれたのと、コンロが外にあったので、家人に気兼ねなく自炊をすることができた。

蚊や猫と戦いながらも(本気で、狙われるのです)問題なくご飯を炊いたり、
野菜を炒めることのできた一口のコンロ。
ある日突然、消えてしまった(持ち主が持ち帰っただけなのだけど。)という事件がありました。

ガスって、一口に言っても、フィリピンではタンク入りを配達してもらうのが主流。日本のように、引っ越した当日、ガス会社に回旋の連絡をすればひねるだけででてくる、ってもんじゃない。

「使い始める」にあたって、必要だったのが

・コンロ本体          約500ペソ
・ガス栓              100ペソ
・ガス栓をつなげるやつ    100ペソ
・ガスのタンク(レンタル用)  700ペソ
・ガスの中身        7ℓで1000ペソ

これ、全部そろえようとすると、ふだんの生活費に比べ、かなりの額が必要なのです。
私の場合、一日の食費はだいたい70ペソ以下くらい。(朝パン、昼その辺のバナナとかいただきもの、夜ごはんとおかず)
庶民とかわらないはず。

それに比べたら、約2500ペソって・・・
大きいでしょ?

マニラの貧しい家庭は炭だし、農村では火を使ってた。
頭金の大きさに驚き、一般家庭じゃなかなか「ガスを使い始める」
ことが難しい理由を、実感。

結局、同居人のフィリピン人女性が秘蔵していた未使用のコンロを譲ってもらい、
ガスタンクも大家さんが貸してくれることになって。

ガス栓・レギュレーターとガスの中身の購入だけでことは収まったのです。

日本円にしたらたいしたことない額だけど・・・当時(も今も、笑)低額生活を試みている私は、2週間くらいガスのことに本気で悩んだのでした。

ばかばかしい、と思うかもしれないけど。

「現地で、現地の人の生活すること」が
おおきな目的でもある私には、とても意味のあることで、妥協はしたくなかった。

そんなこんなで、「生活すること」に必死になった7月でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

私はマニラでどう生活するか

マニラに、戻ってきた。

時間、便利さ、清潔さ、金銭感覚

どれをとってもちがいすぎる。

農村⇒都市
同じ国の中を単に移動しただけなのに。

フィリピン⇒日本
過去、サークルで2週間をフィリピンですごし、帰国したときと変わらぬ
自分がいたことにおどろいた。

ぼーっとしてしまう。

つい、一ヶ月前まであたりまえのように消費していたのにも関わらず。
その中に、何事もなかったかのように再び戻ることもできる。
いや、前だって最初はなんだか違和感を感じながら。感じながらも、やっぱり20年以上すごし慣れた環境が私にとって自然だから。
そうやって、せめて心だけはといいながらも、日常に戻っていくのだった。

マニラでも、限りなく自分のホームと変わらぬ生活を、しようと思えばできる。
バスタブとお湯がでないことをのぞけば。



家人の親子は、いつもソファに腰掛けてテレビをみている。
アハハと笑う、その横で。メイドの女性が料理や洗濯をしている。

私は、時計と携帯を気にしながらジープに乗る。
一週間分の買い物をして、冷蔵庫に入れる。
水の心配もなく、おもいっきり毎朝じゃぶじゃぶ洗濯できる。

ルームメイトがいる。
日本人の彼女は、大学院生でジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンを支援するNGO団体でインターンをしながら、論文を書いている。




生活というものは、自分で決めたリズムを刻んでいくのだと思う。
その状況によって幅はあるが、うまく一定のリズムが整ってきたとき、かつそれが自分にしくっときたとき。
“ここちよさ”や“おちつき”
が生まれるんじゃないか。

・・・

違うのは、今は「おなじ国」にいるということ。

6月の一ヶ月間を過ごした農村。いろいろな村や家庭を渡り歩いた。
同じ国なのに、こんなにもちがうものか、と驚いた。
同じ国民なのに、悪く言えば、こんなにも原始的なのかと感じた。


もはや、生活に国境はないのだということに気がついた。
違いがあるとすれば、それは貧富の差。


だから、もうフィリピンでどう、日本でどう、農村で都市でどうこう、とかじゃなくて。

私はどう生活するか。

なのかもしれない。

どうする?







高級住宅街に位置する、寮から一キロほど先には。
農村の仲間たちがいる、キャンプがある。

省庁が立ち並ぶ、道路に面した路上に
廃材で柱をたて、椰子の葉を編んで壁をつくり、ビニールシートで雨よけしたキャンプ。



イモックの山から、イモックの人々が育て、収穫してきた野菜を売る人。
土地に関する裁判や、異議申し立ての理由でやってきた人。

絶えずそこには、人がいる。
農村の人々の生活がある。




遠い世界だった、でも

今も近くに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

甘いだけじゃないSweet

その日の仕事は、ふもとの街で、結婚式につかうのだという

「ブコサラダ」(まだ若いココナツの果肉の、細いスライスとフルーツのサラダ。コンデンスみるくでめっちゃ甘い)

用ココナツの収穫だった。

私が今まで会ってきたほとんどの農家は、「注文」や「街に行商にいく」という単発仕事に応じて、の収穫作業が主だった。
シーズンにもよるだろうけど、出荷とかじゃないからスケジュールもない。
その日ぐらし。

お父さんが木に登って、息子が下で割り、お母さんが中身を削る。

暑くて、することないし。先に家に入るように、って言われたけど。
セシルも帰りたそうだったけど。


何もできなくても、暑さ大変さを、肌で感じたい。
この家にこさせてもらった意味を、時間ないけど。
見出さなくちゃ。うまく言葉でつたえられない、私を姿から理解してもらわなくては。
じりじり肌を焦がす太陽の下、同じ土の上で時間を過ごした。

・・・

昼ごはん、ジェフリーって16歳兄ちゃんの手伝いをした。
アンパラヤ(ゴーヤ)の葉っぱとモンゴ豆の、緑味のスープ。
妹のロレーナ(10歳)といっしょに、庭のカラマンシー(小さいスダチみたいなの)を収穫した。


サラダ用に加工して、収穫したブコ。どう届けるか、が問題のようだった。
結局、私たちの出発といっしょに、エルマー兄ちゃん(18歳)が担いでいくことに。

お兄ちゃん、たとえ荷物運びでも、街へ降りるからお気に入りの服着て、香水つけて髪の毛立てて、おしゃれも準備万全。



歩いて、家を出発した。
時間は正午すぎ。
太陽は真上で影もなく、恐ろしく暑く陽射しの強い、道をひたすら歩いた。

セシルは疲れ足取り重く、失速していく。
ブコが詰まった重い箱を、肩の上に担ぐエルマー兄ちゃんも、辛いはずだ。自分のペースを守りたい。
距離が離れていく2人のあいだを、どっちつかずと歩く私。

お兄ちゃん、一緒じゃなければもっと楽だったろうに。なんだか申し訳なかった。
2人を無事に街まで、送っていかなくてはという責任も、ブコにくわえて重かっただろう。

話しかけるのもわるい、でも暑くて重くて辛い・・・
何か、できないものか。考えた私は、
歌うことにした(!?)

最初は、なんか知ってそうな、英語の曲。カントリーロードとか、ビートルズ系。
しかしネタも限られている上、疲れて英語もでてこなくなる・・・
もう、やけくそ?で、知ってる日本のJ-popを片っ端から、、
aikoからスピッツ、キロロにウルフルズ・・・宇多田ヒカル・・・一人カラオケ。。。

エルマー兄ちゃんの背中に向かって、へたくそでも気休めにしてくれ!と
歌い、歩いたのでした。

1時間以上、炎天下の中を歩いただろうか。
不意に、街の方角から、バイクに乗った彼の友人がやってきた。
連絡を聞きつけて、迎えに来てくれたのだ。



「のりな。」
汗をダラダラ、息もはずんで辛いはずなのに。
ためらいもなく、エルマー兄ちゃんは初めて見せてくれた笑顔で、
友人のバイクにあたしとセシルを乗るように、促した。

うれしい、もう歩かなくていい。
でも、兄ちゃんは、まだ、この恐ろしく長くて暑い道を一人歩き続けるの?

申し訳なさ過ぎて、でも言われるまま乗って。
バイクでウソみたいに風をきる中で、ずっと考えていた。

2人のよく知らぬ、なにをしにきたかもよく分からないやつを、
重いもの持ってる自分より先に、行かせてくれたのだ。



「フィリピン男は“Sweet”」
いう表現を、きいたことがある。
実際優しいし、日本人なら恥ずかしくてできないような、優しさを甘ったるいと感じることもある。

でも、「弱い者に優しい」は、あたりまえのように
小さい男の子から、大人までわきまえている。それって、すごいと思った。

マニラでも、ジープは女性やお年寄りをかならず座らせてくれる。
重い荷物は、必ず男が持つ。

田舎の村で、まだ小さい赤ちゃんが、みんなにkiss kissされている場面をよく見る。愛情をいっぱい受けて、成長するから。
貧しくても、家族で協力することを知り、優しくておおらかに育つのかもね。

兄弟は多いほうがいい!結論!!10人は遠慮したいけど・・・

フィリピンでの“Sweet”は、「やさしい」「甘い」
「思いやりがある」
いっぱい該当する。

いったいどの訳が、妥当なのだろう。

・・・

でこぼこ道は、3人乗り50ccバイクを降り。
ゴルフコースを横切った。「カンルーバンゴルフコース」って、たぶん日本人とかよくいるんじゃないかな?
街のちかくには、きれいな家々。
完全に、分けられている社会 を感じた。


バスストップについて、すぐに友人は今度こそエルマー兄ちゃんを迎えにいった。
着いて、しっかりお礼がいいたかったのに。
すぐ、どこかへぴゅーっと、遊びにでかけた。

また、18歳イマドキ兄ちゃんに戻ったのね、よかったよかった。いっぱいあそんどいで。笑
フィリピンらしいや。

急にお葬式によることになって、
そんなこんなで最終日は夜中の12時ころ、マニラのNGOオフィスに戻った。
私の、農村トリップは終わったのだ。

着いたら、スタッフの皆が笑顔で迎えてくれた。
アテ・バンジーの旦那、もと軍人で片腕・片眼のダニーが
「何を感じた?」「どう思った?」「何が問題で、解決方法は?分析できたのか??」
酔った勢いで、質問攻めにしてきた。

聞かれるのはあたりまえ。そして、私もこんなにいろんな家庭に、スタッフに、人々にお世話になって。答える責任があるのは、わかってる。

でも、その時かろうじて口からでたのは、
どれも陳腐な言葉、ばかりで。



・・・

なんだろう。やっと、何がわからないのか、わかった感じだった。
きちんと話せたわけじゃないし、ぜんぶ理解できたなんてウソだけど。

その土地、その土地で、人々の暮らしにいれてもらって。
最初は自分、「お客さん」「ガイジン」でも、だんだん手伝ったり、いっしょにご飯食べて寝るうちに、
「リエコ」として見てくれる、まなざしがやさしくなって。
私も、なにもできないけれど、おんなじ場所と時間を過ごして。
言葉にならない、形もない、でも大切なものを、ものすごく
収穫させてもらった。

一旦は区切るけど。
もっと勉強、理解したいと心から思った。
関係をつづけていきたい、出会った、出会えた人々と。

【6月28日 87にちめ  ラグナ州カランバ市バラグバグアラウ村⇒ マニラへ】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »