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2010年2月

2010年2月 8日 (月)

会いたいときに、会える人

2月8日 マニラ滞在318日め  あと残り19日

あっというまに終わってしまった、2週間。

自分の足で、お世話になった人たちに「ありがとう」を伝えにいくつもりが
結局はまた、お世話になるばかりだった。
もう、どうしたらいいんだよう。

やっぱりわたし、彼らにはかなわない。「ありがとう」は返すのではなくて、
誰かほかの人に おすそ分け できたら、
それでいいのかなぁ。



・・・
会いたくて、話ししたくて、呼んだらきてくれた、友だちがいる。

べバリーは、初めてわたしがサークル仲間と訪れた、ナヨン村出身。日本人学生を受け入れてくれた、ホスト家族の一員として出会った。才女で親切だけど、ちょっと頑固なひねくれもので・・・鶏さばきを日本人にやらせては、ひーひー言う姿を笑ってながめていた。答えに困る、政治や歴史の質問してくるから、苦手。身体も態度もでかい、スモーク・ドランカーの不良娘は、ただ「友だちのお姉ちゃん」的な存在でしかなかった。

もともとマニラのフィリピン大学学生だったけど、退学して村にいたのが、どういうわけか10月頃から復学してマニラで暮らし始めた。
たまに会って話すようになり、だんだんわたしのマニラでの行動に、興味を示すようになる。

なんで?どうして?
いつも、きいてくる。わたしはただ、農村で出会ったすきな人たちに協力したいと、デモやキャンプで運動に参加していた。暇をみては農村にいって、彼らの仕事や生活を真似たり記録したり、していた。
その姿は、彼女からみれば滑稽だったらしい。土地をめぐる法律延長運動も、良識ある彼女からいわせれば、理屈はわかっても実現しがたい、理想だという。


いつも理詰めな彼女をひっぱって、ある日農村へ、山の中のお宅へ一泊旅行に。
汗をかきかき、山をのぼった。泊めてもらったのは、電気も水道もない、ぜんぶ手づくり木のお宅。顔見知りの老夫婦は、「こんなところまで、まぁよく!」と迎えてくれた。
葉野菜を水煮にしただけの、おかずと貴重な米の夕食をいただく。ろうそくの火で、語らう。ひゅーひゅー風の音が聞こえる夜。布一枚しいただけの寝床、譲ってもらった蚊帳の中でふたり、寝そべった。

「小作農民の生活は、しらなかった。」
ぽつり、彼女はいった。

べバリーはいつも、自分の家も農家だといっていた。だから、農民のことはよくわかっている、と。農場を持っているらしい。8人兄弟ながら、ほとんどが大学進学できているくらいだから、家庭は裕福な方だ。きっと大きな農場なのだろう。
でもそれは、土地を持っている農民だからであって、小作農とは雲泥の差。
フィリピンの農地は、ほぼ限られた大土地所有者に独占されている。そこで作られている作物は主に日本など、外国への輸出むけだ。
専業農家のべバリー家は、そこまで極端ではないし、国内向けだけれど。きっと一握りのうち。
国内向け農作物をつくる、多くは小作人で、彼らの生活は厳しい。加えて、マニラ周辺のラグナ州の様に、開発者の手により耕作地を奪われている農民も多い。プトル、マハダ、バタンガス州出身者たちは、まさにその当事者。




はじめて、生の体験を、彼女もしたのだと思う。じっと、黙って考えこんでいた。
わたしも6月、目の前の情景を、感じた衝撃を、消化するには時間がかかったっけ。


彼ら小作人を見下していた、とベバリーは言った。

以来、彼女も時間があれば、わたしのようにキャンプへ寄り、そこで農民たちと飯を食い・・・寝泊りもするようになった。わたしが「また今日、キャンプで寝てきちゃった」というと、「信じられない!!」と目をまるくしてたのに。
一生懸命、頭だけじゃなくて、身体で相手を理解しようと、彼女は努めてくれる。
それは、言葉で伝えることができなかった、わたしと同じ方法だ。

フィリピン人同士でも、お互いを知らなかったり、知らない相手を知ろうとしたり。
一緒に、相手から学ぼうとしてくれる、彼女。いつしか私の相棒となった。
いつも、ボランティアはわたし一人だったのに。いつしか彼女が仲間になった。


だいすきな友だちはたくさんいる。けれど、その多くは制限の多い、境遇の人たちばかり。





会いたいときに会える、食べたいものを一緒に食べる、行きたい場所へ一緒に行く
ことができる、唯一の友だち。
日本では当たり前だけど、フィリピンでは夢みたい。

べバリー。あなたのおかげで、わたしのマニラ暮らしは100倍、楽しくなったよ。



明日から、べバリーの妹で、わたしの親友・同期が、日本からやってくる。
一緒に、わたしたちのふるさと、ナヨン村に帰るんだ。

一年前からの、約束。

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2010年2月 7日 (日)

メグとエリサと「ナママヤバス」

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2月7、8日 ラグナ州 ロスバニョス

メグ(写真右)は、NGOのスタッフの一人。フィリピンで最高位の大学、フィリピン国立大学(University of Philippines)を卒業している。 さすが、教養があって、英語も上手。いろんなことを、わたしに教えてくれた。

メグにわたしが初めて、心を開くことができた日のおはなし。
わたしは数人をのぞいて、NGOスタッフがすきになれなかった。農民さんたちとちがって、英語も通じるけど。現場に行くのは嫌らしい、仕事は仕事、と割り切っている。できればもっといい仕事がしたいと、日本の雇用の話をよくきいてくる。「自分とは、ちがう境遇のやつらを助けてやっている」意識を、現地の人からも感じられたこと・・・がっかり。

一方で、家族が農民だとか、当事者のスタッフもいる。彼らはさすが、「ライフワーク」として、真摯に問題に向き合っている。わたしがここフィリピンで会いたいのは、彼らのような活動家たちだ。

高学歴のメグに、あまり期待はしていなかったのだけど・・・違った。彼女は農民出身でもないが、ちゃんと仕事に向き合って、農民の問題を考えている。はじめて二人で車内、移動中の数時間にいろいろ話すことができた。

“ナママヤバス”は、彼女がおしえてくれた言葉のひとつ。
現地語で「バヤバス」は英語ではおなじみの「グアバ」のこと。緑色で一見硬いけど、皮をかじると、ピンク色で細かい種のつぶつぶ果肉がさくっという。甘いよりかは、みずみずしくてさっぱりとした味。さっと手をのばしてとったら、そのまま口にぱくっ。たまに、まだ熟れていないのをかじってしまうとシブーい味がする。
ナママヤバス は、そんな木の実をとりながら、歩くこと。「みちくさ」って意味もあるのだって。
なんか、すきだと思ったこの言葉。
わたしの語彙は、日常会話から身につけているから・・・文語的、な言葉は、なかなか身につけられない。
昔からだいすきな「ナママヤバス」と、お姉さんのような彼女のこと、大事にすることにした。

・・・

旅の最終目的地は、彼女の家。
大卒なくらいだから、農民たちのような貧しい家庭ではないと予想していたけれど。NGOワーカーの生活は、ごくごく質素だった。
母と妹と、下宿生(写真左)そして2匹のねこと、ちいさなアパートに暮らしている。
彼女の家には本がたくさん。大学院に、いつか進学したいと言っていたっけ。

メグと下宿生のエリサとわたしの3人で、メグの母校を散歩した。農林系学部のあるキャンパスは、森林保護区や鳥園があるほど広大だ。

イロイロ島という、別の島からやってきたエリサ。彼女は14人兄弟で、家系を助けるために首都圏に出稼ぎにきているという。
パン屋でふたり、並んで待っていると、身なりの貧しい子どもが、“バリア・・・”とお金をせがんできた。(バリアとは小銭のこと)
いつも、そうするように。私は、ごめんね、あげられないの、という表情を返す。
エリサを見ると、彼女も相手にしていなかった。

彼女に、わたしがマニラで「ストリートチルドレン」と呼ばれる子どもたちの、施設にいっている話をした。すると、彼女もその類の施設にいたことがある、とごく普通に言った。

なんとなく、それ以上をその時は聞くことができなかった。

エリサは20歳だというけれど、幼く見える。身体が小さいこともあるけれど。メグは、いつもお金の使い方を、彼女に教えていると言った。「貯金をしなさい、節約するのよ。」
資本社会とは疎遠で、自給自足に近い生活を田舎で送っていたエリサには、言い聞かせなければならないことがたくさんあるという。

3人で歩きながら、思った。
フィリピンで暮らして、もうすぐ11ヶ月になるけれど。わたしはまだまだ、この国のことをぜんぜんよく知らない。マニラ首都圏と、ラグナ州には詳しくなったけれど。エリサのふるさと、イロイロ島ってどんなところだろう。7000以上の島がある、フィリピンてほんと不思議な国。また、戻ってこなくちゃ。イロイロ島に行ってみたい。わたしの寮にずっといた、お手伝いさんもその島出身だった。

わたしがマハダ村から、おみやげにもってきたカイミート(スターアップル)。
ひとくち食べてエリサは言った。「とりたてのほうがおいしい」
そのはず、もう収穫してから2日経っていたから。彼女の故郷、そこでの暮らしがなんとなく、想像できる。

・・・

週末を、いっしょに過ごしてくれたメグとエリサにさよならを言って、わたしはマニラへと戻るバスに乗った。
ありがとうの旅 が終わる。

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マハダ村 ガラスの十代たち

2月5、6、7日 ラグナ州 マハダ村②

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二日目は、雨。明るいうちは、家の外にでられないわたし。幸い、裏庭の現地語で「クボ」という、椰子の木でつくった屋根つきベンチ(四角いカタチに座って団欒できる)に腰かけていられた。みんな学校の時間、大人も仕事でいそがしい。もう、見舞ってくれる人もとくにいない。

みんなの日常生活の一部に、ほんのちょっと入れてもらっているだけ。じっとしていることを、退屈と感じてしまう、自分にいいきかせる。


風にあたって、雨のにおいをかいですごした。近くの高校から、子どもたちの声がきこえる。

お昼休みになれば、わたしの居たクボはランチスペースになるらしい。お弁当を食べに、女子生徒がやってきた。
冷蔵庫をもっているのナナイ・イマイのおうちでは、お嫁さんがココナツ味のアイスキャンデーを作って、販売している。子どもがまだ小さくて、まだ外へは働きにいけないけれど、家でもできる、ビジネスもある。得意をいかして、すごいなぁ。


少年たちは、なにやらコインをトンカチでたたいてたたいて、指輪づくりに熱中している様子。(上の写真)
じゃらじゃらと貴族のように、指に何個もつけた、てづくり指輪をみせてくれた子も。大人も、実はみんなつくっている!大流行らしい。。。

写真下部の女の子は、クリセル。12歳なのにすごく大人っぽい。よく事情はきかなかったけれど、おばあちゃんの家に預けられている。
夕方、学校から帰ってきた彼女は、今日は一緒に寝よう!と迎えにきてくれた。
薄暗くなってきたし、もう明日帰るから・・・とお許しが!!やったぁ、やっと、外にでれた。
近所の子たちに絵本を読んだり、少年たちの指輪作りを見学したり。やっとやっと、短時間だけど自由にうごきまわることができた。

夜、隣に寝るクリセルと話をする。生理はあるの、と彼女。

よく、子どもと話すときの話題は、女の子ならすきな人とか学校の話とか。男の子ならアニメの話、なんてのが多い。けど、クリセルとの話題、女の子の身体の話はなんだか新鮮だった。成長期真っ只中、身体の変化に不安を覚えた気持ちをわたしも覚えている。身体の成長に心が追いつかないのかな、思春期ってやつか。
きゃぴきゃぴしない、とても落ち着いた子で、12歳とは思えない美人のクリセル。しっかりしていて、ふとんしいてくれたり、朝もコーヒーもってきてくれたり。一生懸命、わたしをもてなしてくれた。ほんと、お世話をしてくれた。

少女が女性へ、子どもから大人へ、変わる時期。
この世代、ティーンエイジャーの子たちって、なんてまぶしいのだろう。

マハダ村では高校生、13~15歳の子どもたちとたくさん話をすることができた。
どれも、たわいのない会話だけど。わたしにとっては勉強。なぜって、来年の教育実習で関わる世代だから。わたしの妹も同じだけど、、、ぜんぜん違う、子どもっぽいや。


日本の子どもたちに、フィリピンの話がしたい。どんな風にしようかな。

・・・

頭をひねって、時間を割いて。わざわざ、こんなにわたしを隠し滞在させてくれるなんて・・・こんな面倒なことないのに。よく二日間も迎えてくれた、フィリピン人のホスピタリティってやっぱりすごい。

帰り道、今度は普通の道で、ジープにのって出ていく。検問の前で、手を振ってみた。ちょっと驚くガードマンさんたち。
マハダ村の人たちに言われたとおり、ね^^

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2010年2月 6日 (土)

マハダ村 女は強し

2月5,6,7日  ラグナ州 マハダ村①

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マハダ村の女性パワーはすごい。いつも井戸端会議に噂話。マニラで運動がある日も、誰がいくかいかないか話し合って(半分はおしつけあい笑)わたしの滞在も、目の前でものすごい相談して。。。10月、もう最初は圧倒されっぱなしだった。こっそり、おとなしい男衆に「ここの女の人たちは元気ね~」と皮肉もこめて、こぼしてみたら。

「男が怠け者だから・・・」だってさ。

・・・

ほんと、わたしの旅は毎回、おもしろいほどスムーズに!問題なくすすんでいった。
道行く人の親切、待っていてくれる人たちの心遣いのおかげ。

マハダ村へ入る、ジープ乗り場。約束どおり、ガソリンスタンドのペトロンで、ドライバーのクヤ・アンドレスが待っていてくれた。タバコをくわえ、車体に腰掛けて。

「あら、元気だった?」
乗客席から、この前10月に泊めてもらったお宅の、ナナイ・イマイがにゅっと顔を出す。
田舎のジープは、乗客がいっぱいになってから発車する。買い物だったり、それぞれ街で用事を済ませてきた乗客たちが、ぽつりぽつりと乗ってきた。時刻表なんてない、いつ出発するのかもわからない、この不確定さ、時間のゆるさ。慣れてしまった今は、心地よい。

しかし、わたしは普通にこの村に入ることはできない。ガードマンが見張っている、手前のお宅にまずは降ろされた。お昼ごはんをいただきながら、しばらくそこで待っていると・・・再び迎えに来てくれた、アンドレスが道を脇に、導いてくれた。背丈以上もある、草むら
というか草原を、鎌でかき分けながら進む。途中で方向がわからなくなり!?(村の中なのに・・・)農作業していたおじさんに案内されて、無事どこかのお宅の裏の畑に到着した。

すぐ、家の中に入れてもらって・・・そこで、また今度は暗くなるまで待機。
わたしが到着したことをきいて、村の友人たちが次々と会いに来てくれた。明るいうちは動いてはダメと、言われているわたしにバナナやカイミートを持って、まるで、お見舞いみたいに。入院患者のような気分のわたし。

暗くなってやっと、またナナイ・イマイのおうちにいけた。ほんの数十メートル、目と鼻の距離だけど、常に銃を持ったガードマンが見張ってうろうろしているマハダ村。10月、普通にすごしていたら名前をきかれ、そんなことになるとは知らず受け答えていたら・・・あれよあれよという間に、スパイ疑惑?らしきものをかけられていたらしい。危ないから、来てはだめだと少し前までは言われていた。
でも、この村の人たちとはいつもマニラで運動のとき会っていて、仲良しだったから。
最後の旅で立ち寄らない訳にはいかなかったのだ。
みんなの協力で、シンニュウ成功☆

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2010年2月 4日 (木)

タリサイ村 うれしいあだ名

2月4日 バタンガス州 タリサイ村

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お母さんがこまった顔していっていた。
「この子は女の子なのに、洋服も髪型も、遊びまで男の子みたいがいい!っていうの。」




ミティはボーイッシュな8歳の女の子。10月に会ったときは、年上の男の子に混じって、外で草野球に熱中していた。その上かなりうまい。

わたしは彼女と仲がいい、というか。彼女とわたしは「友だち」。

仲間に誘われると、必ずわたしにも「いくよ~!!」って、頭数にいれてくれる。草むらでの野球、路上でのバトミントン、いっしょに思いっきり、遊んでくれる。

彼女の仲間、近所の子どもたちも、いつの間にか仲良しに。わたしのこと、ちゃんと覚えていてくれた。久々に会うやいなや、今回もバドミントンに鬼ごっこ、シーソーに。練習してくれたのか、英語でいろいろ質問してきてくれた。

・・・

赤ちゃんからおじいちゃんまで、いろんな場所でいろんな人に会ってきたけど・・・
この、ミティほど気のあう子はいないのよ。
こんな、8歳の子どもが?と思うでしょ、わたしもうまく説明できないのだけど。
でもなんだか、とにかく、自分の年齢も国籍も言葉も忘れて、彼女とは付き合えるの。彼女もわたしをそう、扱ってくれるのだ!!

どうしてだろうかと、考えてみた。
別にわたし、子どもの頃ミティみたいにいつも男の子に混じって遊んでいたわけではない。男兄弟もいなかったし、運動が得意だったわけでもない。でも、すごく男の子に混じって遊びたい、と思っていた気がする。おもいっきり、勝ち負けにこだわって泥だらけになるまで、男の子にも負けないくらい・・・そんな風になりたかった、自分。
でも実際は、女の子によくある、グループをつくって、トイレ行ったりこそこそ誰かの陰口いったり。ホントはすきじゃないのに、無理していっしょに「女の子らしい」遊びをしていたっけなー。いやでいやで、いつも悩んでた、小学生だった気がする。中学生になってからは、また変わったけどね。



だから、ミティに憧れたのかもしれない。ミティみたいな友だちが、ずっとほしかったのかもしれない。

・・・

「リエコっていうの?
じゃあ、あだ名はアテ・コエリね!!」

会ってすぐ、彼女は私をこう呼んでくれた。
日本でのあだ名は、なぜか小学校の頃から・・・ずっと苗字。フィリピンでは普通に名前だったけど。
改めて、あだ名それも名前から!というのは初めてで。こそばゆいような、なんともうれしい感覚。

大切にすることにした、ミティからもらったあだ名。

呼んでくれるのは、本当に彼女だけだけどね★
“ate Coely~”

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ミティは5人兄弟の4番目。末っ子のあまえんぼセドリックと、カカオの実をたべてるところ。

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ルンバン村  家族の容とは

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2月3、4日 バタンガス州 ルンバン村

彼女が、ヴェヌスのおばあちゃん。この地域のこと、人々の生活。10月は一日居ただけで、まだあまり、よく分からなかったから・・・泊まりたいとずっと思っていた。
前も、うちに泊まっていかないかと誘ってくれた、優しいナナイ・ヴィルヒミヤ。今回は迷わず、「ねます!!」とわたし。


ひろいひろい草原は、まだ耕作することを許されていない土地。「バカ」と呼ばれる白い牛たちだけが、自由に草をはんでいる。電気も水道もない、この草原にポツリと建つ、おうちに住むナナイ・ヴィルヒミヤ。
実は彼女、愛人。ヴェヌスのおじいちゃんにあたる、相方は一週間のうち半分だけ、ここで過ごす。10人いるらしい、子どもたちと正式な奥さんは別の場所に住んでいる。でもよく、息子を連れてきては、異母であるナナイ・ヴィルヒミヤといっしょに留守番させたりしていて・・・なぜか、わたしがお邪魔したときも、息子がひとり、男手としていたなぁ。
息子と、その父親の愛人と、わたし。3人で買い物し、3人でご飯を食べて寝た・・・なんとも不思議な関係の中だったけど、息子はナナイ・ヴィルヒミヤを「おばちゃん」と親しんでいたし。。。居心地はわるくなかったなぁ。

滞在2日目は、近所のおうちに遊びに行った。前日、「いっしょにおやつをつくりましょう」と
さそってもらったのだ。不在だけど、NGO活動で知り合いだった、お父さんの子は10人。次女で18歳の女の子が、下2人の弟の面倒を家でみていた。
彼女はしばらく前に、ガードマンとして町で働いていたという。全寮制の仕事は大変で、今は休職中らしい。母親は、よそのお宅のトマト畑に働きにいっている。農民だけど、仕事がない今は、父親は建設業の日雇い仕事をしていて、週末だけ家にもどってくるのだそう。
母親のように、家の掃除をして皿を洗い、泥だらけの2人の弟の身体をふいてやって。まだ小学生の、3人の兄弟が帰ってくる頃には昼ごはんの準備。その片手間に、わたしをもてなそうと、おやつをつくってくれて・・・一週間に何日かは、夜中に栽培したナスを、姉と町まで売りにいく。

なんというか、頭があがらなかったな。
「どうやって、ここでの生活費を払っているの?」
日本でバイトして貯めてきた、なんて。質問に答えるのも情けない。

ここの土地がもうすぐ、手に入って耕作できるようになったなら。米にナスに、トマトに・・・いろいろ植えるんだ。って、近所のおじさんが、薪を割りながら話してくれた。次にわたしが来る頃には、いっぱいになってるだろうから楽しみにしていてね、といった。

頼まれて、あちこちのココナツ収穫に出張する、木登り名人もいる。両足をゴムでしばって、ぴょんぴょんと、ほぼ垂直に伸びる10メートル以上もある椰子の木を登るのだ。よじ登るのではない。ほんと、軽やかにぴょんこぴょんこと、のぼる。すごくきれいな筋肉をしていた。


ルンバン村の人たちは、シャイでみんな優しかった。優しいパパさんたちはまだ若くて、仲もいい。子どもたちは、学校へいっていたからあまり仲良くできなかった。もう少し、時間がほしかったかな。

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2010年2月 2日 (火)

ホルナラン村のすてきなおうち

2月2,3日 ラグナ州 ホルナラン村

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だいすきな友だち、セシルのおうちにいくのは6月以来2回目。
やっぱりすき、ここの景色、ここの家族。肩の力をぬいて、のんびりできるんだ。
セシル以外シャイな家族は、あまり話しかけてくれないけれど。セシルの甥姪っ子たちにくっついて、そこらじゅうを散歩してまわった。

上の写真の家族は、セシルのおばさんファミリー。(前の赤いワンピースの子はお姉さんの子)
わたしは、彼ら、ロイ・ジニア夫妻をものすごく尊敬しているの。
後ろに見える、クヤ・ロイがつくったおうちはすごい。外に開け放している窓が見えるでしょ?きれいな空色のペンキに塗られている。

家の中には、クヤ・ロイが描いた絵がいっぱい飾ってある。子どものための、アルファベット表だったり、いろんな果物の絵も壁に自分で描いている。絵だけではなくて、机も棚も、ベッドも階段も。調味料をおくためだけの、ちいさな戸棚もあったりして・・・
「貧しさの中にも華がある」
ただ雨風をしのぐためだけの、住処ではない。

農村の家は、みんな農民さんたちの手作りが一般的。結婚して子どもができると、夫婦がすこしずつ力をあわせて「自分たちの家」をつくるのだ。それって、すごくすてきなことだと思った。
前までは、こんな小さい、土の床、木の家に住むなんてわたし、考えたことなかった。でも彼らは、イチから全て手作りする過程を楽しみ、工夫をこらして暮らしをいろどっている。なんて面白く、すてきな生活だろう。なんて創造的、なのだろう。なんだか挑戦してみたく・・・なったり。

農業で生計を立てる2人。アテ・ジニアが山の畑に連れて行ってくれた。
「本当はここに、ローンしてピクニックエリアを作りたかったの。」

自然豊かな山の中、畑に鶏小屋、魚のいけすを用意する。入場料を払ってくれたお客さんは家族で貸し切り、自由に野菜を収穫したり、釣りしたり。鶏をつぶして食べてもいい、自給自足の生活を味わえる。そんな、ちいさなキャンプ場をつくりたかったの、
だって。


こんな、夢のあるビジネスの構想ももっている2人。
お金がなくても、夢をみることはできる。でもその夢も、ただの理想とかじゃなくって、ちゃんと自分たちの足下をみた、自分たちの位置をよく理解した上での、現実的な「志」だ。
もしかしたら、本当にいつか、実現できるのではないかな。いっしょに協力してみたい、と思えた。本当に、この人たちは心が豊かだ。

彼らのように、お金を使わずも工夫して、生活を彩りたい。
夢をいつも、持っていたい。
わたしの憧れで、目標の夫婦。

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クヤ・ロイが描いた、ポール・マッカートニーの絵。おみやげにくれた。
日本で今も、わたしのおへやに飾ってある。

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2010年2月 1日 (月)

トゥロ村 ヴェヌスのこと

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2月1日、2日  ラグナ州 トゥロ村

10月にバタンガス州で仲良くなった、ヴェヌス。おばあちゃんちに遊びにきているところだった。最初はシャイでお話してくれなかったけど、慣れてきたら、日本語で名前をかいて、とせがんできた。書いてあげた「あいうえお表」。下にふった仮名のアルファベットで、毎日一生懸命、よみの練習してくれたんだって。
お父さんはトライシクルドライバー、まだちいさい弟の世話をするお母さん。4人家族はお父さんの実家に身を寄せている。
同居しているお父さんの兄弟は、イタリアへ出稼ぎにいっているらしい。きれいなテレビやコンクリートの壁に床、家財道具もちゃんと揃っているおうちだった。お姉さんは、しきりに日本で仕事がないか、きいてくる。近所も家庭も「出稼ぎ」効果で、立派なつくりのお宅が多い集落。

おうちのすぐ裏は工場、創られた公園でヴェヌスと遊んですごした。

おうちに遊びにいく10月からの約束を、やっと果たせた。

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いくつになっても マイ・スウィートハート

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プトル村の人たちとは、6月以来キャンプでずっと寝食ともにし、歩いたり走ったりもした仲。「この人か!!」って親族関係がつながったり、話にきいていた娘息子、父母にも会えたり。新しい出会いも。また会えた、その笑顔がたまらなく嬉しい。

いちばんの仲良しは、エスメラルド父さん、通称 タタイ・エスメン。
よく、「マイ・スウィートハート」って、奥さんの話をしてくれた。出会う前のガールフレンドの話から始まって、笑 長々と聞いてもいないのに馴れ初めを・・・いくつになっても、恋バナだいすきフィリピン人。
うちにきたら、ココナツにパパイヤ、バナナ、なんでも好きなもん食わしてやっぞ。って、エスメンのおうちには遊びにいく、約束してたんだ。

エスメン家は、娘息子夫婦の家が同じ集落にあり、ちいさなエスメン一族村のよう。熱愛奥さんにも、会えた。
奥さんは脳卒中になって以来、身体が不自由らしい。そいえば、以前エスメンが全部身の回りの世話をしているともいってたな。ちょっと最近もの忘れがはげしくてね、と寂しそうにエスメン。認知症の気も感じられるのかもしれない。


今夜はわたし、ここに泊まるー!!
この親友宅に泊まると宣言したけれど。ガードマンの巣に近いから、危ないと他の村人に猛反対されてしまった。仕方なく、近所の他のおうちにおひっこし。
エスメンも、奥さんも寂しそうな顔をしてくれた。

プトル村、ここではわたし、自由に外を出歩けない。大切にたいせつに、村の人々に隠してもらって守ってもらってありがたい。けど、話すorミリエンダ(おやつ)いただくしかできなくって。仕事を手伝ったり、お散歩できないのはやるせない。もう、肩の力いれる必要、ないのだけどね。

でも、お客さんのわたしより、住人たちのほうがよぼど。不自由な思いをしてるんだろうな。故郷から追い出されるかもしれない、
って、どんなにか辛いことだろう。



2日間、お世話になったプトル村を、迎えにきてくれたネネとまた一緒に、同じ道をたどっていく。
ふたりだけのジープ、歌のうまい彼女に「この歌うたって」と、お気に入りのタガログソングを口ずさんでみた。
そこからは、2人で大合唱。他のお客さんが乗ってきたから止めたら・・・
今度は運転席から、同じメロディが聞こえてきた。



やっぱりフィリピンすき。
こういう瞬間思う。

2009年2月1日  ラグナ州 カランバ町 プトル村

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バハラ ナ! 

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聞こうか聞くまいか。ずっとうずうずしていた質問をしてみた。
「アテ、クヤ、どっちで呼べばいい??」
ネネはちょっと噴出し、、笑いながら答えた。

「バハラ ナ!!!」

ケ セラ セラ  
なんくるないさ 
ケンチャナヨー

ってとこ?
どっちでもいいさ。気にするな。なるようになればいい。
言葉の意味が、やっとつながった。フィリピン人がよく使うタガログ語だけど、分からなかったんだ。

オトコオンナ?トムボイのネネの謀りごとが成功して、わたしはプトル村に侵入成功。
私有地化された村に、よそ者が入るのは難しい。10月にも試みようとして、止められたんだ。あのときはWANTEDになってたらしいから・・・でも、たくさん友だちのいるこの村に、どうしても行ってみたかった。
ネネ計画は、村に正面から入るのではなく、隣村から境界線に沿っていく道。農民だから、知っている道!どきどきしながら、言われたとおりジープを乗りつぎ、降りた場所にネネが待っていてくれた。やったね!とふたりでガッツポーズ★

ジェントルマンは、わたしの重いリュックを背負ってあるいてくれた。
でも、家では姪っ子・甥っ子である姉の子を、自分の子のようにかわいがっていて・・・こっちがはずかしくなるくらいベタ褒め、親ばかー丸出し。ほほえましい。
ケータイだいすきで、わたしにもよく、絵文字だらけのメールをおくってくれる。



最初はどう接したらいいか、分からなかった。
オンナオトコのバクラとも、ちがう。同性なのだけど、心は男らしい。その年齢(40才前後?)の人特有の、母性にあふれた甘えさせてくれる感じもないし。年上だし、名前呼ぶにも「アテ(お姉さん)」「クヤ(お兄さん)」分からないし・・・苦手だった。

でも、今回侵入計画を持ちかけたら、責任をもってちゃんと、守ってくれた。
お兄さんのように。
でも、家では「お母さん」してくれた。
ふしぎ。まだよくわからないけど・・・

とにかく、わたしはネネがだいすきになった!!

バハラ ナ


ね。すきな言葉がひとつふえた。
ちなみに、今はアテ・ネネで落ち着いています^^

Blog_ampalaya

彼女の母親が育てているアンパラヤ。
日本語でなんの野菜でしょう??










2009年1月31日  ラグナ州 カランバ町 プトル村

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家の中  

Blog_ate_marivic

昨夜、隣で寝たのはおうちについてすぐ印象に残った、元気がよくて口も達者なアテ。
そういえば、昨夜は暗かったし、ずっと座っていて動いている姿は見なかった。今朝気がついた。彼女は足が悪い。細く短いので、おしりをするようにして前へ進んでいた。

フィエスタのごちそう、デザート用「ブコサラダ」(若いココナツの実と、コンデンスミルクをあえたあま~いサラダ)をふたりで床にぺたんと座り込みながら、袋に詰めた。

「勉強をはじめたの。」

いつもの明るさ、気の強い口調が、はずかしそうに言う。
読み書きのことらしい。わたしが、出会った人の名前を覚えるため、仲良くなるごとにノートにもらっていたサイン。そういえば、彼女はゆっくりと一文字ひともじ、書いてくれたけっけ。

M a r i v i c

ここフィリピンで、もし心身に障害をもってうまれたならば。家にこもらざるおえない人が多い。特別教育もなければ、施設もない。彼女もおそらく学校にはいかなかったのだろう。ずっと家に居て、ふびんに思う家族に甘やかされて育った、という感じだ。子どものうちはいいけれど、大人になれば仕事につくのも難しい。今まであまり目にしてこなかったのは、それだけ「中に居る」ということ。
同じ20代、結婚もして家庭をもつ、兄弟の奥さんはアテ・マリヴィクとの関係がよくないと、家族の誰かが教えてくれた。フィリピンの大家族、みな仲良しに見えるけど、いろいろあるよな。

底抜けに明るくて、いいたいことは言う。わたしのことは、ものすごくかわいがってくれた。自分のお客さんだったかのように。
おこづかいでプレゼントしてくれた、恥ずかしくなるくらい真っ赤でハート型のクッション。
そうだ、バレンタインが近いのだった。
おうちを出発する際には、「これもっていきなさい!!」
と、朝早くからキッチン台を占有してつくってくれたサツマイモパンケーキ「ブッチェ」を持たせてくれた。キッチン台の上にどかりと乗っかったまま「ばいばい」と手を振って見送ってくれた。




サント・トーマス村は、お祭りの時にきたから。目にした人々の姿は、日常とはすこし違ったのかもしれない。すごいごちそうの準備だったけれど「去年はこんなことできなかったのよ」とナナイ。

ティーンズカルチャーを知ったり、話ができたり。念願のフィエスタを体験できたサント・トーマス村。

大きな山のふもと、広く平らな畑が 絵に描いたような。とても気持ちのよい村でした。

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2009年1月31日 ラグナ州カラワン町サント・トーマス村

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